1958年(昭和33年)12月1日 アメリカで市民ラジオが発足しました 27MHzを利用するもので水晶方式のものです。

2008年12月1日アメリカでのCB発足からちょうど50年が経過したことになります。

すべての原点はここにあるのかもしれません。


プロローグ
日本でCB無線の生誕は1961年。アメリカに遅れる事3年。それ以前は27MHzは認知されるべき周波数ではなかったよくCB無線などでは「俺のクラブは結成50年とか大風呂敷を聞くが認可されたのが1961年なので、当然それ以前に無線をしているはずがない・・・

1961年11月1日 500mwの電力を使用する市民無線制度が発足しました。それ以前に日本には市民無線(CB)という概念はなく、27MHZは漁業無線関連に割り当てられているものでした。

国内で無資格で使える無線が認可になったのは、画期的なことで、バスやトラックなどの移動体を扱う会社は固定された場所から移動するものへ通信ができることにおどろき無限の可能性を抱いたものです。ただそのときの無線機はいまより大きく真空管式のものでしたので、非常に高価である上、安定もないものだったのです。

偶然にも同じ時期、米国では国内よりチャンネルもパワーも大きい、CB無線が認可になりました。

国土の大きさが歴然と異なるわけですから、しかたのかいことかもしれません。ただ、この規格の違いは、何年か後、日本国内に衝撃とあたえることになります。



1962年
国内CB無線は、翌年から発売され、500mWのハンディ形式で認可になっていたため、決められた2者間での通話をおこなうのが前提でした。遠足のサポートや警備業務など、ごく限られた場所での使用ということになります。

しかし、同様に1961年に発足した米国のCB無線は、出力もチャンネルも大きく、外部アンテナなどを設置できいることから1対1のコミュニュケーションではなく、第3者と通信ができるという通信方法がメイン運用でした。当時は、周波数を割り当てるだけだったものが、免許がいらないという便利さが手伝って、CB無線の大ブームが到来します。この運用は、トラッカーなどの連絡はもちろん、車と自宅や、自宅から友人宅など、たくさんの運用が生まれていったのです。そう、米国内でのCBブームは、1965年から1972年の間に起こります。
当時の日本は、都合のよい町工場的な役割で、アメリカ規格の23チャンネル無線機を組み立てては輸出するということをしていた。アメリカの大ブームに対応するため、大量生産をおこなっていたのです。

国内でもこの米国(FCC)規格の無線機を国内で使いたいという局がいても珍しい話ではなく1965年代になると
すでに27MHz対で運用する不法CBの姿がみられたものです。ただ、不法運用であってもこの当時は、まだ、漁業無線の代わりにつかったりするだけなので、目立った不法行為という認識がありませんでした。

1967年になる100mWで3−8chが追加されるが、同時に

外部アンテナ禁止、PTT禁止になりました、


1970年

FT−101の発売は、アメリカのCBreたちにとって画期的なことでした。購入しただけで、100wもの電力がでる無線機が買えるようになったのです。昭和45年の出来事です。

 

1974年
米国では、CBブームをの影響を受け、23チャンネルの無線機ではユーザーがあふれ、収容しきれなくなります。そのため闇市場では23chのうえにおう23チャンネルをプラスshた46ch無線機というものが売られ、不法運用が目立つようになってきたのです。そこでFCCでは、従来の23チャンネルだったバンドプランを見直し、40チャンネル化したのです。

本来ならば国内で使用できないはずの27MHZで水晶制御方式の無線機が
秋葉原などでひっそりと売られ始めた時期と一致するのは、実はこの40チャンネル化と一致します。

国内では、アメリアのCBブームのために、23チャンネルの無線機を大量に作っていました。ところがチャンネルプランが変わってしまい、旧規格である23チャンネルの無線機がうれなくなってしまったのです。そのため、国内でダブついた無線機を国内の販売店に流し始めるのです。

ところが23チャンネルの無線機は、国内のCB無線とチャンネルプランが違うため、1チャンネル2チャンネルは日本の合法トランシーバーと数khZしか違わないので、相互に通話できるのですが、それ以外の周波数ではまったく通信できません。

国内合法運用者との連絡は1チャンネルか、2チャンネル。違法ユーザーは1チャンネルで連絡をしてから、サブチャンネルでである。3チャンネルかた23チャンネルへ移動をするという運用がおこなわれていました。
チャンネルを独占するようなクラブはなく、オンエアする全員が仲間意識によって結
ばれていた時期です。


 

1975年
当時の無線機

日本ではなんと8ch CB無線機が認可に・・・

この当時の無線機は、11チャンネルや9チャンネルという水晶を入れて希望周波数に出られるタイプと、FCC規格による23チャンネルの無線機がありました。

そのため23チャンネル以上の周波数を持つ無線機は存在せず、すべての通話は1チャンネルから23チャンネルの23チャンネルの中で行いました。、46チャンネルの無線機がポピュラーになるまで、お2階は特殊なチャンネルなので、
OMさんしか出られないものだと思われていたものです。
この時期から国内でクラブ化が進みます。オンエアする局数が多くなったため、人を集めやすくなったというのも
その1つでしょう。また、トラックの長距離移動が目立ってきたのもこの時期ですが、
この当時はまだノーマル運用(4w)がほとんどで、長距離になると使い物にならない
ため、組織化して、チャンネルを独占することはできていません。
 
 


1976年                                

CBブームのくすぶりそれは1976年までさかのぼる
アメリカでは日本より2年も3年も早くCB無線がブームになり、たくさんの23チャンネルのCB無線機が日本国内で生産され、アメリカなどで輸出されていました。アメリカでの需要は大きく、大量生産が行われていました。
輸出向けCB機は、コストダウンが図られ、無線機の単価は2万円程度の価格で売買が行われていました。  国内で合法に使用されるCB無線機は0.5W程度のハンディタイプしかなく、価格も30000円以上もしていたのですから、"それ以上の出力""それ以上のチャンネル"がついたトランシーバーが”それ以下の安価”で入手できるとなれば、売れないわけはありません。
国内に流出 していた輸出向け無線機は、カーショップなどでも販売されるようになってきたのです。
 1976年のCB界では、流出した無線機はまだ23チャンネルの無線機しかなく、トーカイやオーフナ、ブランドの無線機がかなりの幅を聞かせていました。CB局増加のキッカケの年で、これから約15年間にわたって栄えることになります。
 


1977年

本来ならば海外に輸出される無線機が国内に流出し、国内でも充分な販
売量が期待できるようになってきたのが1977年です

     
 それまでは23チャンネルもあれば、チャンネルなどは余り、充分にQSO
できるのに「このチャンネルは俺たちのものだ」と主張するようなグル
ープが増えてきてしまったのです。 
使ってもいないチャンネルを占拠し他人をよせつけない運用と、グルー
プの名前などを看板にして、積極的にグループの威力を連呼して、その
勢力を誇示するのです。
また、メーカー不詳の50wブースターが発売され、電力による遠距離
通信がおこなわれはじめた時期にもあたります。

 特に大規模なグループになればなるほど、自分がそのグループで守ら
れているような錯覚に陥り、自分があたかも強くなったような口のきき
かたになったりするのです。
 ちょどおまわりがエラそうに説教タレるのに似ています。
 つまり「おまわりが偉いのではなく、バックが警察だからつきあって
あげているのに気がつかないのです
このような威圧的な運用をしていると、こころならずとも良くない感情
を抱く局も現れるようになり、無変調をかけたり、わざと混信にしたり
されたりするようになってくるものです。こうなると統制がとれなくな
り、パワーで相手をツブすか周波数を変えるか? の選択を迫られます
 チャンネル確保を固執するグループはブースターで送信出力を上げ、
相手をツブすような行動に出てしまったのです。
 もちろん正しい解決方法ではないことは間違いありません。
 またこのような無益なことはしたくないと考えた局は、周波数を移動
することを考えました。 
 実はアメリカでは、23チャンネルの無線機にお二階とい
うチャンネルを増加させた46チャンネル無線機が登場していました。
これがそっくり日本のもやってきました。
 コミニカSX101やタイコン、ユニバース747などが46チャンネルの無
線機として販売されるようになってきた代表でしょう。 
 


   
 1978年

CB無線大増殖の年!


 海外でもCBブームは続き、日本国内のように23チャンネルの機械にも
う23チャンネルを増設した46チャンネル無線機、さらにもう23チャンネ
ルを増やした69チャンネルなどという非合法の機械が増えてきたために
FCCではCBバンドを23チャンネルから40チャンネルに増加することを可
決しました。
 国内とは違い議案はすぐに可決実行され、CBは40チャンネル化しまし
た。国内外でのCBブームのためにCB無線機は大量生産されていたために
突然の40チャンネル化には驚き、そして23チャンネルの無線機の在庫が
たくさんあったのです。
 突然40チャンネルになったからといって、仕様の変更ができるはずも
ありません。そのため古い規格の無線機はアメリカに輸出できなくなり
国内に大量に流出してきました。 
 業者としてみれば不良在庫になるよりかお金にしたほうが良いのです
から原価を割ったくらいの金額で販売されるようになり、10000円程度
実売価格になってしまったのです。
 使い方次第で何Kmも飛ぶ無線機が10000円程度の金額で手に入るの
ですから当時の中学生や高校生にアッという間に広がるとともに国内で
も爆発的な数が流通し始めたのです。
 国内でもCBが流行を初めていた時期に、さらに安価での販売が始まっ
たためにCB熱は加速を続けるようになりました。
 在庫の山もあっという間になくなってしまうと同時に、新しい注文も
来るようになったのです。国内でも売れる分かれば何も運賃を払って輸
出する必要はなくなり、国内にも新しい規格である40チャンネルの無線
機を売るようになります。
これがCB無線機の40チャンネル化の実体です。
 単純に周波数が40チャンネルになっただけでは、あまりおどろかなっ
かったのですが、40チャンネルの無線機はそれまで追加された、27.235                                     、
MHzから27.405MHzまで周波数チャンネルうち間チャンネルがなく、すべ
てオンエアできることになっていたのです。
 これには当時のCB無線家はおどろき、好んで34チャンネルや39チャン
ネルを使用しはじめたのです。                                         、
 それと同時に、チャンネルの呼称で論議が巻起こりました、
 今まで27.315MHzで通話をしていたグループは、HIの5チャンネルと
いう呼称を使用していたのですが、
 ところが40チャンネルの無線機を買って出てくる局は31チャンネルと
いう表示になっているではありませんか! 
 新しく無線を始めた人たちが「ここは31チャンネルだ」と主張できる
はずもありませんので、古くからオンエアしている局の23チャンネル無
線機が壊れ、あたらしく、40チャンネルの無線機を買ってくるまで31チ
ャンネルとい呼び方にならなかったのはいうまでもありません。
 


 1980年
さらにCB界はオンエアする局の増大から40チャンネルのトランシーバー
を改造した80チャンネルという無線機が登場してきます。
 チェイサーシリーズMC3000などはこの時代に登場をしてきました。
 この当時の80チャンネルの無線機は、40チャンネルのチャンネルの上
に水晶を増加して、27.415MHzから27.855MHzまでの450KHzの40チャンネ
ルを増設したものです。23チャンネルの無線機が46チャンネルになったと
まったく同じ手法で2階チャンネルができあがったのです。
 80チャンネルなどが認可になっている国はどこにもなく、世界中どこ
に行っても違法無線機になりますがそんなことは知ったことではないの
でしょう。
 80チャンネル化でCBは26.965MHzから27.855MHzまでの900KHz間に広
がったことになります。
 もちろんチャンネルは多ければ多いほど良いとされていたのですから
さらにチャンネルを増やそうとする機械も現れたのです。
 ところが27.855MHzから上に作ると27.865MHzから28.315MHzまでにな
り、28MHzのアマチュアバンドに入ってしまうことになります。
 これではうまくないということで、今度は26.965MHzより下に40チャン
ネルを増設するようになり、これがいわゆる地下チャンネルと呼ばれる
ようになり、26.515MHz〜26.955MHzまで占拠するようになったのです。
 これが120チャンネル無線機の周波数です。
 


これだけ増えてしまったCBではおおきな社会現象とひきおこしました。事実上電波監理局職員を総動員しても不法運用をへらすことができないため、郵政省はパーソナル無線というあたらしい無線をスタートさせました。1983年には初めての無線機がなんと12万円という10万円を超える価格で販売され不法CBER達は新しいバンドへと移動をはじめたのです。

取り締まりの恐怖におびえるより、堂々と電波が出せるパーソナル無線、そんなところがウケたのでしょう。しかし、パーソナル無線は、なにがなんでも自由にできるものではありません。なにより申請が必要なうえ、ROMカードリッジを差さないと通話ができないのです。そのためかなり不自由なものでした。

パーソナル無線の話はまた別の人に譲ることにしましょう。

1985年

それまで隆盛をきわめていたCB無線は排他運用を続けていたために、新規に参入する人局が減り、その昔から無線をしている人が細々と続けていることになります。そしてもうひとつおおきな出来事があります。それが携帯電話の発売です。いままで個人と個人を結ぶのは、無線か電話しかなかったのですが、あらたに携帯電話で連絡をすることができるようになったのです。この現象はCB無線だけではなく、アマチュア無線にも大打撃を与え、無線を新規に参入する人が少なくなったものです。この当時は加入金で20万円とか、非常に高額であるうえ、いわゆる自動車電話のものからハンディホンへの過渡期になり、移動する連絡手段としてポピュラーになりつつあったのです。

 

 

1987年

排他運用が横行したAMを嫌った運用者は27.300MHZに集まったのですが、困ったことにこの周波数にAMの常識を持ち込んだ局がいました。SSBなのに、ブレーキングタイムを持ち込んだり、「全国○×会・・・」と初めてしまったのです。もちろんそんな運用はすぐには定着するわけではなかったのですが、同じような交信口調で出てくる人が増えてしまったのです。ちょっと残念な現象ですね。

1990年

ただでさえ、参入が少ない業界にとどめを差す現象が現れます。それがPHSです。高価な通話代金がネックだったものが、なんと1分あたり10円という格安の価格で通話できるのは魅力で、もはやアマチュア無線やCB無線 という通信に頼らなくても十分に用が足りるわけです。つまり、単に技術的興味によって無線をするのではなく、他人と通話をするためにだけ無線を運用していた人がいかに多かったか?ということを戒めるものなのです。

この現象はCB無線ばかりではありません。アマチュア無線でも同様で1990年をピークに新規開設局が減っています。

 

 

 


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